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宗教についての所感

はじめに

 自分は特に専門家ではないけれど、興味本位で、世の中でカルトと呼ばれているような宗教やメジャーな宗教の人たちに話を聞く機会を多く持ってきた。一見違和感のある教義や、インターネットでよく目にする批判なんかも直接ぶつけてみて、彼らがどのような考えで敬虔な信者として生きているのかを率直に聞いたりもした。

 そうしていると、なんとなく宗教というものについて、共通する要素とか雰囲気とか、善し悪しについてとか、感じたことがまとまってきたのでここで一度まとめてみようと思う。

 目次はこんな感じになる。

 個々はそんなに長くないし、前段を踏まえて書くから途中で飛ばさない方がわかりやすいかな。

 また、この内容には関係しないから特定の宗教の名前をこの記事で出すつもりはない。僕も無宗教だし、どこかを批判するつもりもないよ。おまけはちょっと色が付くけれどね。

 さて、そろそろ始めようかな。

宗教の話をするときに気にしていること

 宗教というのは、基本的に 人生の理不尽 答えのない問 との付き合い方みたいなところがある。僕らも日々暮らしていて日常的にどうしようもない嫌なことがあるものだけど、宗教はそれらとの向き合い方を提供してくれる、と聞けば少しは興味が出る人もいるのではないだろうか。

  • なぜ他の人より不幸なのか
  • なぜこの世は悪で満ちているのか
  • どうすれば幸せになれるのか
  • 死んだらどうなるのか
  • 前世、来世はあるのか

 僕は初めて触れる宗教には、この辺りを意識して話を聞いている。

 例えば「東日本大震災で亡くなったあなたの宗教の信者は、どうしてそんな不幸にあってしまったの?」という話をする。

 返ってくる答えは様々だけど、必然だ、偶然だ、本人のせいだ、悪魔のせいだ、とかそんな感じに分類される。

 重要なポイントは、どの宗教も その宗教なりの答え を持っているということだ。

 家族や友人を亡くせば「なぜあの人があんな目に」と悲しみに押しつぶされそうになるだろう。けれど、天災被害に明確な答えを見つけるのは難しい。答えのない問題を考え続けると、人間はだいたい病む。

 この、人間が病む原因となる問題に、一定の答えを出してくれる。これが宗教の基本機能ではないかと僕は思う。

 これは人生において有用か? 間違いなく有用だ。端的に言ってしまえば無駄なことで悩まずに済むってことだし。

戒律(制限)による効果とその薄め方

- 戒律の効果

 宗教というのはそれぞれ何かしら戒律(制限)を持っていることが多い。

「これをしなければならない」「これをしてはいけない」

 というものだ。

 メジャーなのは「○○を食べてはいけない」系で、これは不衛生な環境で食中毒を防ぐためのものだったって説もあったりする。他の禁止系も、何か問題が発生することを防ぐために設定されたっぽいものが多い。

 対して強制系のものについては、一体感を生むためとか、コミュニティをうまく運営するためのものとかが多いイメージだ。

 そんな感じで、どれもそれぞれに意図がある制限だと思うのだけど、結果的にそれをちゃんと守る集団に何が起こるかというと 強烈な仲間意識 の発現だったりする。

 そしてそれは 戒律が厳しければ厳しいほど苛烈 になる。

 いや、ちょっと語弊があるかな。 戒律の適応が難しい社会ほど苛烈になる という方がより正確だ。

 なんでそうなってしまうのか、というと、誰でも経験がありそうな話で、

「なんでこんなにがんばっているのに評価してもらえないんだ!(自分の献身にふさわしい見返りがあるべきだ!)」

 という感情が人にはある。人間は、無意味に努力するのが苦手だから、意味が欲しくなる。

 戒律が厳しく社会への適応に苦労するほどこの重い想いは募っていくし、同じ理不尽を堪えている仲間との一体感も増してしまう。そして、想いの根底に不満や怒りがあるし、彼らは「自身に何らかの権利」が蓄積されている気持ちになっていくから、どうしても過激になりがちだ。

- 戒律効果の薄め方

 では、どうすればそういったマイナス面の問題が起こらないように──つまり、彼らが良き宗教家たちでいてくれるようにするかといえば、話の流れからして自明なんだけど 「社会が許容する基盤を整える」 ということだったりする。

「うちの宗教、たくさんの戒律があるんだけど、特に生きている上で困ることとか我慢することはないかな」

 って世の中になれば、彼らは努力の意味を探す必要がなくなる。

 もちろんこれだけですべてが改善するかというと、そもそも教義が時代にそぐわなすぎるとか、好戦的だとか、そういう問題があったりするものだけど……。基本的にはバネみたいに押さえ付けられるほど反発して高く跳ぼうとするもので、その問題点を解決するだけでみんなだいぶ穏やかな生活を送れるようになる。

布教という欠点

 インターネットでよく批判されている宗教の人に詳しく(100時間以上は)話を聞いたら、とても理知的で合理的で効果的な宗教だな、と感じたことがある。

 ではなぜその宗教は批判されるのだろうか? というと、やはりというか、布教活動が原因だった、というケースが何度かあった。

 この 布教 という要素が宗教においては何よりも曲者だ。

 例えば、メジャーな宗教が一つあって、しかしそれは時代遅れになって欠点が目立ってきた。そこで新たな素晴らしい宗教を作った人が、「時代遅れの宗教から皆を移すために布教を推進する教義を入れよう」と考えたとする。これ、どうかな。自然な発想じゃないだろうか。人によっては、悪い宗教に騙されないように「改宗を禁じる」とか言うかもしれない。

  「良いものを広めるべき」 って発想は誰にでもあって、基本的には善意で行われるものだし、そもそもある程度の規模がなければコミュニティとして成立が難しい。布教するべし、という教義はあって当然なものなのだけど……

  うざい

 いや、うざいんだよね、興味のないものを勧められるって。

 これが無宗教の人の勧誘ならまぁ普通のセールスかなって感じだけど、異教徒同士でやると教義が衝突起こして事故になるのは当たり前で、 猫飼っている人に「犬の方が素晴らしいですよ取り換えましょう」 って売り込むみたいな大事件になったりもするわけで。

 無宗教の人たちも、そもそもみんな現実世界を生きるのに精いっぱいで、宗教とか胡散臭いものに時間を掛けたりしたくないわけですよ。友達が良いって言った映画や音楽すら勧められても見ない聞かないって人が多いわけで、そりゃ宗教なんて売り込んだらうざいよなぁ……っていう。

 しかし、聖典には あなたたちは布教が使命だ くらいのことが書かれているわけで、敬虔な信徒たちはやらざるを得ない。

完璧に素晴らしい宗教は栄えない

「そんなに布教が嫌われるなら、布教しなければいいのでは?」

 そんな風に思ってしまうので、もし完全に欠点がなく信者の人が幸せな生活を送れる指針を示してくれる宗教があって、その教義に「布教はするべきではない」なんて書かれていたらどうなるだろうか? 布教したら嫌われるのだから、するべきではない。完璧である。

 そうするとどうなるかというと、 誰もその宗教の素晴らしさを知ることができなくなる んだよね。

 その宗教の良さを喧伝するとそれすなわち布教行為だからすべきではない。「この宗教はこんなに素晴らしいです」なんて言われたら誰だって胡散臭く思うから、また嫌われる要因になるよ。

 この考え方がありがちにエスカレートすると、

「あなたは自身の宗教についてどう考えていますか?」

「それを話すことはできないんだ。申し訳ないけれどね」

 みたいになるかもしれない。誰も実態がわからない。怪しい……。

 まぁこれは極端な例だったかもしれないけど、布教をしない宗教はどんなに良くても広がらないから、狭いコミュニティで細々と続くかひっそりと退場していくだろう。

 しかし、布教行為はどうしても不興を買う。それを改善した完璧な宗教は続かない。うん、これはどうしようもないね。

宗教という杖は必要だろうか

 もし、あなたが無宗教で、人生の意味とか、生死についてとか、言いようのない生きづらさについてとかで日々悩んでいるのなら、あなたは宗教という杖を手にすると人生が充実する可能性がある。

 僕が無宗教なのは、そういった問に自分なりの答えを持っているからで、言い換えれば「自分教」という宗派にすでにいるからだ。もしあなたがこういう人種なら、既存の宗教とは方針が喧嘩しがちだからあまり向いていないと思う。

「宗教とは、人生という山を登るための杖である」

 って表現をした人がいて、これは良いたとえだと思った。

 山を登っているととんでもない悪路が出てきたりするものだけど、そこで支えになってくれる杖があれば、ちょっと楽になる。

 良い宗教と悪い宗教を見分けるときは、その宗教が杖として使われているかどうか見てみると良い。

「人を殴るこん棒にされていないか」

「杖どころか人を乗せて勝手に動いたりしていないか」

「一気に頂上まで飛んでいけます! みたいな宣伝をしていないか」

 あと、前述の理由から戒律が厳しいものは注意が必要だし、布教の仕方も要注意。

 純粋に人生の杖、という話もそうだけど、田舎の宗教とかは独居老人たちのコミュニティとしての役割を担っていたりもして、バカにできない地域貢献効果があるものもある。

 宗教って胡散臭くてトラブルの元で良くないもの、ってイメージを持っている人も多いと思うけど、人類の知恵が生み出した集合知の一つと言えるから、一度色眼鏡なしで調べてみると面白いかもしれない。

※このエントリはいち素人の感想と考えをまとめただけのものです。鵜呑みしちゃダメだぞ。

おまけ:ヴィーガン(完全菜食主義者)は宗教?

 ヴィーガンというのは、動物由来の食べ物、加工品などを一切拒否した究極のベジタリアンみたいな存在のことを指す。

 根底にあるのは動物を傷つけたくない、という気持ちだ。

 食事に限って言えば、肉や野菜はもちろん、卵や乳製品といった動物由来のものをすべて断つというのが彼らの主義だ。また、加工品も加工工程で動物に何かしらの害があると判断したらそれもアウトになる。

 そういった制限を破らずに生存に必要な栄養素を摂取しようとすると、コンビニの食品なんかほとんど食べれなくなるし、安い牛丼やハンバーガーというのも無理。すると食費は自然に高くかかるし時間もかかる。ヴィーガン専用レストランなんかもあるけど、やっぱり高いからね。

ヴィーガンと厳しい戒律

 つまり、ヴィーガンというのは現代社会において 厳しい戒律 で生きている人たちである。

 うん、戒律の話を思い出してもらうともうわかると思うのだけど、例にもれずヴィーガンという人たちもたまにとても 苛烈 になる。精肉店とか屠殺場を武力で襲撃したりする。肉を食べる人をなんて残酷な悪魔め! みたいに言う人もいる。うーん、過激……

ヴィーガンと不純な布教

 さらにヴィーガンが問題視されがちなのは、ヴィーガンの仲間の増やし方だ。

 彼らは屠殺場の映像なんかを人に見せて、「ほーらショッキングでしょう! こんなことはやめるべきでしょう!」みたいな増やし方をすることがあるのだ。

 まぁ昔はみんな家の裏で鶏や豚をしめたりしていたものだけど、現代っこたちはそういう経験に乏しく、動物と言えばペットとして飼っている家族みたいなイメージしかない人もいる。そんな中でそういった映像を見せれば当然ショックを受ける。

 それってつまり 精神ダメージを与えて 弱ったところで捕まえようとしているわけで、お医者さんの中では「ヴィーガンの人たちはPTSD心的外傷後ストレス障害)の可能性がある」って言う人もいるくらい。

 布教がうざい、くらいで済むならまだしも、攻撃してくる布教とは、さすがに良くないよね……。

ヴィーガンとあやふやな基準

 ヴィーガンの人たちは生産過程で動物に害があるものを避ける、という話をしたけど、その中で難しい議題がある。

 彼らの主食は野菜なんだけど、この『野菜』って本当に大丈夫なの? という話があるのだ。

 どういうことかというと、野菜を育てようとすると、少なくないケースで害獣対策が必要になる。結果的に野菜を作るために害獣として少なくない動物が殺されているわけだけど、それってヴィーガンのポリシー的にアウトじゃないの? とか。

 肥料として貝殻を砕いた粉が使われているとか、そもそも畑を作るときに山を切り開いて動物たちの住処を奪っている=関節的に殺しているよね、とか。

 さらにさらに、「野菜も痛みを感じている可能性がある」なんて研究結果が出てきたりしている。正確には傷ついたときに特有の反応が見られる、ということなんだけど、それがもし本当に痛みだとしたら、何も傷つけたくないと考えているヴィーガンの人にとって、野菜も完全にアウトな食べ物になる。

ヴィーガンのこれからを想像する

 わかりやすいから戒律と布教という言葉をここでも使ったけれど、じゃあヴィーガンは宗教なのか? というとやっぱりそれは違う。

 ヴィーガンには戒律と布教があるけど、宗教というのは別に戒律や布教がメインコンテンツではないからだ。あくまで人生の杖としての教義があって、それを取り巻く戒律があるのだから。

 ヴィーガンの人たちの「何も傷つけたくない」という気持ちは別に不自然なものではない。ただ、現時点ではその戒律が厳しすぎることに問題がある。

 経済的に、時間的に余裕がないと、健康的にヴィーガンを続けるのはとても難しい。

 無理して続ければ精神的、身体的に病んでしまうし、そうしたら負の感情も巻き起こる。戒律の厳しさからくる苛烈さからも解放されない。

 これを解決する方法はやっぱり、彼らの戒律が厳しいと感じない社会を作る必要がある。徐々にヴィーガン対応の食品は出てきているし、日本ではまだ馴染みがないけれど人口培養肉というのも作られている。

 そうして徐々に彼らが生きやすい世の中になれば、自然と彼らも穏やかに社会に溶け込んでいくのではないだろうか。もちろん肉食文化との対立は決して消えないとしても、今ほど苛烈なもの(襲撃するとか)ではなくなってくれるのではないかと思う。思いたい。

 出家したら殺生禁止、みたいな宗教的生活をしている人は強烈な布教活動とは無縁だったりするし、どこかで社会と彼らの信条とでバランスが取れる世の中がくればいいと思うし、互いに一方的に相手を排除するような苛烈さは抑えて生きていきたいよね。

 一応補足するけど、ヴィーガンの人たちが自分たちの仲間を増やすために刺激的な映像や写真を他人に見せるというのは、れっきとした暴力だ。もしヴィーガンの大多数がそういった手段を取るようであれば彼らは暴力集団といわざるを得ない。残念ながら、何かを守るためだと叫びながら他人を平気で傷つけるような人たちであれば社会で許容することは難しい。彼らの理念のためにも、そういった手段を取る人たちがいなくなってくれれば良いと思う。