状況判断できていそうで実はまったくできていない僕たちの話
時刻は午前7時を回ったところ。
駅の出口は改札を出て少し歩いたところにあった。出口に立って軽く周囲を見回す。
空は鬱屈とした鈍色の雲で覆われていた。路面のアスファルトは濡れ、ところどころに小さな水たまりができている。行き交う人々は皆傘をさして足早に交差点を渡っていた。
僕の隣から、また一人、また一人と制服姿の高校生やスーツのサラリーマンが傘を開いて駅から出て行く。サラリーマンの男性が多いせいか、傘の色は濃紺や黒のものが多いようだ。
僕もすぐに屋根から1歩出て、そのまま人の波に混じった。ただし、傘はささずに。それから目的地に到着するまでの約10分、僕は一度も傘を開くことはなかった。
なぜなら、雨は降っていなかったから。
いや、なに言っているかわからねーかもしれねーですが、雨、降っていなかったんですよ。
降っていないんです。1滴も。
状況は上で描いた通りでいかにも 雨降っています 感が出ていたのですが、現実ではただの曇り空でした。
これ、僕はちょっとだけ衝撃を受けました。え? なんでみんな傘さしているです? って。
これってきっと「みんな傘さしているから雨が降っている」と多くの人が判断した結果出来上がった状況だと思うのですが、それにしてもちょっと異常です。ぱっと見回しただけでも50人以上が雨も降っていないのに傘をさしているのですから。
普通、雨が降っているかどうかの判断は、雨が降っているかどうか目で確かめればいいのです。
ただ、目に見づらい小雨のケースというのは確かにあって、そのときには「他人の傘」や「水たまりの水面」あたりをみんな判断材料にしていると思います。
僕が遭遇したあの場面では、大多数が傘をさしていて、水たまりは小さく材料になるほどではなかった、という状況でした。うん、確かに誤解してもおかしくないんだけど、なんだかなー、なんだかなー。
実際、僕は目で確認した時点で「あれ、これ降っています?」と疑問になり、小さな水たまりをじっと見つめて降っていないことを確認しました。
「他人の傘」を見て降っていると判断するのはいいけど、その前に自分の目で確認するというプロセスが抜け落ちていませんか?
何も疑問を持たず、他人の言動だけで状況を判断するというのは、『とりあえず他の人のやることを真似してみる』に類似した一種の思考停止なんじゃないのかな。と思う。
みんな、最初は傘をさして出た。それからすぐ、「なんだ降っていないじゃん」と傘を閉じた。そんな話であればまだ良かったのだけど。
みんな、傘をさして出た。そしてきっと、「傘が音を立てないほどの小雨が降っている」と思ってずっとさしていた。
『傘をさす』って行為、ちょっとめんどくさいと思う。そんな行為を、周囲の状況から勝手に判断した思い込みで続けてしまう。ほんの5秒立ち止まって自分の目で雨そのものを確認すればいいだけなのに。
これは、『直接確認せずに周辺情報だけで判断すると損をすることがある』という教訓なんじゃないかなーと思いました。
そういう僕も、もしかしたら、ちょっとぼーっとしていたら、他の人と同じように傘をさしていたかもしれないです。です。
そんな感じで、状況判断できていそうで実はまったくできていない僕たちの話。でした。