『努力が報われる』ということの定義を考える
『努力は報われない』
そういう意見を目にすることがある。
・死ぬほど練習したけど全国大会に行けなかった
・猛勉強の末、受験に落ちた
・50社面接を受けたけど全部落ちた
なるほど、確かにそういう経験をしたなら、報われないんだ! と思ってしまう気持ちはよくわかる。
『努力は必ず報われる』
こう言う人もいる。
しかし、報われない派からすれば、報われる派は努力が実った『一握りの勝者』に映るかもしれない。
本当にそうなのだろうか?
両者の違いを観察してみると、ちょっとした違いに気付く。『報われる』という言葉の定義が違うのだ。
例えば、次のケースで考えてみる。
ケース:部活で頑張る ===
あなたは部活の大会で良い成績を残すため、毎日へとへとになるまでたくさんの練習をしました。絶対の成功を信じて、自分の中のすべてを掛けてこれ以上ないほどの努力を重ねます。
そして迎えた本番。
残念ながらあなたはミスをしてしまいます。それも緊張からきたつまらないミスで、結果は散々でした。
しかし後日、「部活を頑張っている姿が良いと思った」と告白され、素敵な恋人が出来ました。
===============
上のケース、あなたはどっちだと思いましたか? 報われた? 報われなかった?
『自分の目指した結果』に届かなかったという点では、明らかに報われていません。実力を発揮出来ずに叶わなかったとなればなおさらです。
しかし、頑張ったおかげで素敵な恋人が出来ました。『自分の目指した結果』とは違いますが、別の場所で良い結果があったのです。これは報われたと言っても良いのでは?
報われない派は『自分の目指した結果』に届かなかった時点で報われなかった! と嘆き、報われる派は『自分の目指した結果』には届かなかったけどあの努力のおかげで良い未来を引き寄せられた! と自信を深める。
すべての人がそうとは言わない。でも、そういう傾向があるように思います。
正直な話、『自分の思い通りの結果になる』ことを『努力が報われる』ことだと定義すると、多くの努力は報われないことが多いです。
「コンクールで1位になる!」
という目標を参加者100人が立てたとすれば、叶うのは一人だけで他の人は叶わないわけだし。
でも、努力の結果には意外とおまけがついてくることが多い。
スポーツや芸術分野で努力すれば、結果は伴わなくても努力した分だけスキルは上がる。
部活の大会では活躍出来なくても、体育の授業では活躍出来る。
楽器のコンクールで入賞出来なくても、楽器を弾けるということは一般人からすればかなり好印象のスキルだ。知り合いがいきなりショパンとか弾き出したら痺れます。びりびり。
みんな努力をする動機は、何かしら目的があるからだ。
だから目的が達成出来ないと『報われなかった!』と早合点しがちになる。いや、目的が達成出来なかったのは大変残念極まりなく心中御察ししますといった風情ですが、そもそも自分が設定した目標が自分の人生にとってベストであるなんて誰が断定出来るのだろうか。いや出来ない(反語)。
スポーツの大会で必死に優勝を目指して無事優勝出来たとして、そのままプロになったけどすぐに故障で引退・・・なんてストーリーは普通にある。最初の方で負けておいて、他の生き方をした方がもしかしたら幸せだったかもしれない。
砂の城を造ってもすぐ波にさらわれる。きっと家に帰る時間までに完成させることは出来ない。それでも作り直す度に、作る速度も、部分部分の出来も必ず良くなっていく。
さらに人生の先まで観ていくと、その砂の城を造ることで培った手先の器用さが思いもよらない結果をもたらすかもしれない。
さぁ、みんな定義を考え直して欲しい。砂の城は完成しなかった。でも努力は報われるのだ! たぶん、どこかで。
あなたの努力はあなたの思い通りの結果を生まないかもしれない。でも、その努力が別の結果をもたらしてくれる可能性を考えるべきだ。
そして、あなたの今の状況が、過去の自分のどんな言動によって生まれたものかを常に考えるべきだ。
『努力は必ず報われる』
そう考えたほうがたぶん人生は楽しい。
さぁみんな、さっさと報われない派からジョブチェンジしてつまらない人生をちょっとだけ楽しくする努力をしてみよう。
(その努力は残念ながらあなたの人生をちょっとだけ楽しくすることには失敗するかもしれないけど、その代わり興味深いものとかエキサイティングなものとかにはしてくれるかもしれない。人間万事塞翁が馬、ということだ)